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2017-10-8 14:41
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先週の読書は経済書や人気の時代小説など計7冊!
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米国雇用統計で1日ズレて日曜日になった先週の読書は、経済書をはじめとして計7冊です。かなりよく読んだ気がします。でも、先週の読書界の話題はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞だったと思います。村上春樹はどうなるんでしょうか?

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まず、小川英治[編]『世界金融危機後の金融リスクと危機管理』(東京大学出版会) です。編者は一橋大学の国際金融論を専門とする研究者であり、編者以外の各チャプターの著者も一橋大学を中心に、学習院大学、中央大学、早稲田大学のそれぞれの研究者であり、出版社も考え合わせると明らかに学術書であると理解するべきです。ですから、読み進むのはそれなりにハードルが高くなっています。でも、マクロとマイクロの両方の観点から、タイトル通りの金融リスクや金融危機管理を論じており、2007-08年のリーマン・ショックをはさんだ金融危機から、ほぼ10年を経て、やや時が経ち過ぎて気が抜けた気もしますが、それなりの分析を披露しています。ただ、繰り返しになりますが、学術書ですので読み進むのはそれほど容易でもなく、特に、本書冒頭第1章の金融危機後のリスク分析の新しい流れの解説については、数式を中心とするモデル分析であり、モラル・ハザードという聞きなれた概念からモラル・ハザードに限定されない逆選択などの情報理論、あるいは、ネットワーク効果なども含めて、従来からの、というか、リーマン・ショック以前に主流であった金融リスク分析モデルである無裁定価格アプローチの限界を明らかにしつつ、決定論と確率論を比較する試みなどは、かなり理解が難しいといえます。第1章の結論として、モラル・ハザードの理論的な分析として、ブラウン運動に基づく正規分布からの乖離、下方へのジャンプ確立を服ネタ確率密度の変更可能性の考慮、それに、いわゆるファット・テールの問題など、そういった従来にない前提の変更などを行えば、シャープ比の引下げに伴うリスク資産価格の適切な評価、あるいは、リスク効用を投資者の限界効用と逆方向にヘッジさせるように動かす可能性など、極めて興味深い指摘がいくつも込められているだけに、今後の実証が楽しみながら、金融の専門家ならざる通常のビジネスマンには理解が難しそうな気もします。ほかに、私の目から見て興味深いテーマは危機時の流動性、とくに、世界経済レベルでの流動性の最終的な供給者、すなわち、Internationa Lender of Last Resort の議論なんですが、国際的な流動性が米ドルであるならば米国連邦準備制度理事会(FED)にならざるを得ないが、世界経済の必要性と米国経済の環境が必ずしも一致するとは限らない、という指摘も可能性は低いながらあり得ることだと受け止めました。2008年リーマン・ショック後の金融危機に際しては、世界経済の観点からも、米国経済の観点からも、FEDが大幅な金融緩和、量的緩和を含みレベルの金融緩和を行うべき経済情勢の一致が世界経済レベルと米国国内経済レベルで見られましたが、特に、物価上昇率の水準次第で、必ずしも世界経済の必要と米国国内経済の必要がFEDの金融政策レベルで同じになるかどうかは保証されていうわけではありません。そうなると、国際通貨基金(IMF)はどうなのか、私が3年間暮らしたインドネシアでは、少なくとも、IMFに対する信任が高かったとはいえないと思いますし、果たして、国際流動性の最終的な供給者はどの機関が担うべきか、まだまだ国際金融の問題が解決されるには時間がかかるのかもしれません。

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次に、西川祐子『古都の占領』(平凡社) です。著者は仏文の研究者から、女性史などの研究もしているようで、京都的には、私の記憶ではその昔に寿岳章子先生がいらっしゃいましたが、その後継かつ小型版といったところなんだろうかと受け止めています。ということで、本書は、読んだ私の目から見て、京都における戦後占領の歴史の研究書というよりも、ジャーナリスト的にトピックやキーパーソンをインタビューした結果を取りまとめたものであり、逆から見て、著者である取材者のバイアスは当然に反映されています。すなわち、占領軍の兵士に着目する場合でも、京都の地域住民の生活に貢献し、市民から感謝されるような兵士もいれば、占領軍の治外法権などの特権的優越的な地位を悪用して強盗強姦などの犯罪行為そのもので地域住民を苦しめた兵士もいたんでしょうし、統計的なマクロの把握と比較であればともかく、どちらに着目するかは取材者のバイアスです。その意味で、私は本書がどこまで意味ある労作なのかは判断しかねます。同時に、戦勝国から進駐してきた占領軍と敗戦国の地域住民ですから、俗に表現しても、仲良く協同して占領目的である非軍事化と民主化を進められれば、それに越したことはないものの、決して対等な関係であるハズもなく、もしも、仮にもしもですが、本書でいくつか取り上げているような交通事故や売買春などでは、加害者と被害者に分かれるとすれば、占領軍が加害者的な立場になり、京都の地域住民が被害者的な役回りになる、というのはある意味で自然かもしれません。そして、それは大昔の京都だけではなく、現在の沖縄でも生じている関係であることはいうまでもありません。もちろん、大昔の京都と現在の沖縄の重要性を論ずるつもりはありませんし、すでに戦後長らくの期間が経過し、記録や記憶が失われつつあり、あるいは、意識的か無意識的かは別にして、決して意図的に思い出したくもないと考える日本人が少なくない中で、こういった資料の歴史を何らかの形で残しておく作業は貴重なものといえます。

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次に、マイケル L. パワー/ジェイ・シュルキン『人はなぜ太りやすいのか』(みすず書房) です。著者2人は産婦人科の医師、というか、研究者であり、邦訳者も医学の研究者です。英語の原題は The Evolution of Obesity であり、直訳すれば、「進化する肥満」とでもするんでしょうか、2009年の出版です。ということで、タイトルから明らかなように、肥満をテーマにしており、肥満とはBMIで体重との関係を測ったりはしているものの、基本的に、脂肪の過剰と定義しています。そして、もちろん、肥満については健康への阻害要因として、好ましくないものと捉えられています。しかし、人類の長い長い歴史からして、肥満が問題となり始めたのはせいぜいが20世紀からの100年間であり、肥満がほぼほぼ存在しない前史時代や人類史の初期段階を別にしても、19世紀くらいまでは肥満が問題視されることはなかったと指摘しています。まあ、人類の寿命がそれほど長かったわけでもないことから、肥満が問題視されることもなかったんではないかと考えられます。でも、人類の寿命が長くなるに従って、肥満が死亡率の高さと相関していることが注目されたようです。そして、本書では肥満に対して進化生物学的アプローチを中心に迫っており、結論として、肥満の増加はヒトという種の適応的生物学的特性と現代という時代環境との間のミスマッチに起因する、というものです。すなわち、種としての誕生以来、人類は生命維持に必要な食物獲得のために身体を動かさねばならず、現在のようなあり余る食物に恵まれることが稀な環境で数十万年を生き延びて来たわけであり、生存のための適応は、当然、食物というエネルギー摂取の効率を高める方向に働いたんですが、20世紀以降のここ100年ほどの期間では、高カロリー食料が市場に溢れ、例えば、ピザが自宅の玄関まで宅配され、身体活動は余暇のスポーツという贅沢に変わった一方で、身体は過去の進化の刻印をとどめているため、食物摂取を通じたエネルギーの過剰蓄積への歯止めが弱いまま人類は飽食の時代を迎えた、その結果が肥満である、ということになります。加えて、進化の過程で大型化した脳を支えたのが脂肪だったこと、また、脳の発達のために赤子が脂肪を豊富に蓄えて生まれてくることも、太りやすさの背景にある、と指摘します。そして、最後の結論として、「肥満の回避も何かひとつによって達成できるわけではない」ということになりますので、とても学術的な内容ながら、当然、実践的ではないわけです。私のような専門外の者の読書としては、ともかく難しかったです。一定の前提を必要とする本のような気がしますので、決して、多くの方にはオススメできません。私自身も半分も理解できたとは思えません。でも、興味あるテーマを取り扱っていることは事実です。

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次に、三浦しをん『ぐるぐる♡博物館』(実業之日本社) です。著者はご存じの通りの直木賞作家です。ミステリ作家以外で、私のもっとも好きな作家のひとりです。ですから、余りにも当たり前ですが、文章はとっても達者です。訪れた、というか、本書の表現では、ぐるぐるした博物館は、東京の国立科学博物館をはじめとして、計10館です。本書で取り上げている、というか、同じことですが著者が訪れた順に、長野の茅野市尖石縄文考古館、東京の国立科学博物館、京都の龍谷ミュージアム、静岡の奇石博物館、福岡の大牟田市石炭産業科学館、長崎の雲仙岳災害記念館、宮城の石ノ森萬画館、東京の風俗資料館、福井のめがねミュージアム、大阪のボタンの博物館、となっており、番外編としてコラムで取り上げられているのが3か所あり、熱海秘宝館、日本製紙石巻工場、和紙手すきの人間国宝である岩野市兵衛さんの工房、となっています。だいたいにおいて、名は体を表していますので、何の博物館か明らかではないかと思いますが、石ノ森萬画館の「萬画」はマンガの意味ですし、京都の龍谷ミュージアムは龍谷大学という大学があり、浄土真宗のお寺が母体となっていますが、ご同様に龍谷ミュージアムも西本願寺が母体となっていて、でも、浄土真宗に限定されず幅広く仏教を中心にコレクションを行っているようです。私は三浦しをんのエッセイは何冊か読んでいて、やや年代は異なるものの、酒井順子のエッセイについては、調べがよく行き届いていて、お利口な大学生や大学院生が提出するリポートのような印象があるのに対して、三浦しをんのエッセイは、バクチクの追っかけをやっているとか、電車に乗っている際に耳をダンボのようにして聞き及んだ街の話題とか、かなりエッセイストの生活に密着した話題が多かったような気がしていたんですが、最近では、キチンとした取材に基づいてジャーナリストのような、というか、雑誌に連載されるに堪える調べの行き届いたエッセイになっているようです。本書の博物館訪問記のエッセイも、とてもよく取りまとめてあり、ページ数の関係か何か、ボリューム的にもう少し詳細な情報が欲しいと思わないでもありませんが、楽しく読める達者な文章のエッセイに仕上がっています。テーマも博物館ですから、目からウロコの知識も得られて一石二鳥ではないでしょうか。ただ、マンガに関する石ノ森萬画館訪問の際に、とても興奮した文章が見受けられますが、マンガに関しては10年ほど前に開館した京都国際マンガミュージアムを取り上げて欲しかった気がします。それだけが残念です。

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次に、畠中恵『とるとだす』(新潮社) です。昨年15周年を迎えた「しゃばけ」シリーズの最新第15話です。長崎屋の跡継ぎの若旦那である一太郎を主人公とし、次の「まんまこと」シリーズとは違い、妖がいっぱい出て来るファンタジーです。今年2017年1月号から5月号までの「小説新潮」に連載されていた5話を収録しています。すなわち、「とるとだす」、「しんのいみ」、「ばけねこつき」、「長崎屋の主が死んだ」、「ふろうふし」です。5話が続きものになっており、一太郎の父親である長崎屋藤兵衛が広徳寺での薬種問屋の寄合で倒れてしまいますが、その原因は他の薬種問屋さんたちに勧められるまま、沢山の薬を一度に飲んでしまったことで、昏睡状態になってしまいます。藤兵衛旦那の意識を回復させるべく一太郎は奔走することになります。それが「とるとだす」とそれに続く5話で語り尽くされます。「しんのいみ」では、一太郎は江戸の海に現れた蜃気楼の世界へと紛れ込んでしまいます。さらに、「ばけねこつき」では、一太郎は奇妙な縁談話を持ちかけられ、騒動に巻き込まれます。「長崎屋の主が死んだ」では、詳細不明ながら長崎屋に恨みを持って死んだ狂骨という骸骨の亡霊のような妖もどきが現れ、次々と人を襲い、中には死に至るものも出てしまいます。最後の「ふろうふし」では、神様の大黒天が現れて長崎屋藤兵衛の本復のためのヒントをくれて、一太郎が常世の国に渡ろうとしますが、結局、お江戸の中で騒動に巻き込まれてしまいます。でも、最後は、父親の藤兵衛が回復し、めでたし、めでたしで終わります。

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次に、畠中恵『ひとめぼれ』(文藝春秋) です。人気シリーズ「まんまこと」最新刊第6話です。町名主の跡取りであるお気楽者の麻の助とその友人を主人公にし、お江戸を舞台にするシリーズで、「しゃばけ」のシリーズと違って、妖が登場しません。普通の人間ばかりです。その上、時が流れます。子供は大きくなり、老人は死んだりもします。このシリーズ第6話は、『オール読物』に2015年から16年にかけて掲載された6話を収録しています。すなわち、札差の娘と揉めて上方へ追いやられた男の思わぬ反撃に端を発する「わかれみち」、盛り場で喧伝された祝言の約束が同心の一家に波紋を呼び起こす「昔の約束あり」、麻之助の亡き妻に似た女にもたらされた3つの縁談の相手が目論むホントの目的を探る「言祝ぎ」、火事現場で麻之助が助けた双子から垣間見える家族や大店の内情とそれを原因とする騒動に巻き込まれる「黒煙」、大店次男坊が東海道で行方不明となり店の内情が明らかとなる「心の底」、沽券が盗まれた料理屋に同心一家と雪見に行ったから麻の助がその料理屋の隠された暗部を明らかにする「ひとめぼれ」の6話です。町人の営む大店や料理屋などで、一見して外からはうかがい知れない何らかの暗い部分が、麻の助の巻き込まれる騒動により明らかとなって行く短編が多く収録されており、町人や武士の商売や一家の内情に深く切り込んだ内容となっています。もちろん、楽しいことばかりではなく、暗い部分の方が圧倒的に大きいんですが、それなりに明るく乗り越えようとする麻の助とその仲間たちを微笑ましく応援できる好編です。

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最後に、木俣冬『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書) です。著者は、ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポ、インタビュー、レビューなどを得意とするライターです。この新書では、タイトル通り、NHKの朝ドラについて、特に2010年前後くらいからSNSなどで拡散し、再び大きな盛り上がりを見せていると分析しています。朝ドラが人口に膾炙し始めるのは、1966年の「おはなはん」からであるのは衆目の一致するところであり、1983年のバブルの走りのころの「おしん」がもっとも注目を集めたのもご同様です。しかし、年末大晦日の紅白歌合戦と同じで、朝ドラも長期低落傾向にあったんですが、2007-09年くらいにほぼ底を打ち、2010年度上半期の「ゲゲゲの女房」から再び上向きに転じています。最近では「あさが来た」や「とと姉ちゃん」などがヒットといえますが、かなり全体的にいい出来栄えではないかと思います。というのは、私は実はほとんどの朝ドラを毎日のように見ているからです。2003年の夏の人事異動でジャカルタから一家で帰国して、その2003年度後半は「てるてる家族」でした。本書の著者によれば、低迷期入りの第1陣を飾った作品だそうですが、石原さとみは決して悪くなかったと記憶しています。最近お作品で私が途中で見るのを止めてしまったくらいにひどかったのは「まれ」でした。本書でもややキツい評価になっています。「てるてる家族」の後は低迷期に入り、「ゲゲゲの女房」の後もいくつか駄作はありましたが、本書では2011年下半期の「カーネーション」が史上最強の朝ドラと評価されています。そうかもしれません。先週月曜日から下半期の「わろてんか」が始まりました。期待は膨らみます。



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