一応、中国株でいこう!というブログなので、中国の動きを入れながらブログを書かないとと思っているのですけど、いつも関係ない事を書いてしまいます。今日も、サラリーマン小作農について書きたいと思います。前の記事と重複する部分もありますが、気にせず書き進めたいと思います。自分の考えを知ったかぶりして書いているだけなので、人に受け入れて貰えなくても関係ないです。この日記の結論としては、「資本主義の中でサラリーマンを続ければ大半が貧しくなりますよ」という事です。書いている内容を読み返すと、ちょっと暴走気味ですね。
日本に限らず、基本的にはホワイトカラーと言えば、どこかの職場で働いて収入を得るという事になります。職場という場所が収入を得る場所として認識されて、人々は仕事の"場"を通じて労働供給を行って、それに対する報酬を得て、それを家庭において消費活動として支出します。この考え方に基づく基本的な収入は企業に依存する事になるので、人々は企業に労働資本を集中的に投下して、より多くの報酬を得ようという事になります。企業の求めるような労働を供給して、報酬を最大化した上で、家計は消費に専念します。
日本に限らず、基本的にはホワイトカラーと言えば、どこかの職場で働いて収入を得るという事になります。職場という場所が収入を得る場所として認識されて、人々は仕事の"場"を通じて労働供給を行って、それに対する報酬を得て、それを家庭において消費活動として支出します。この考え方に基づく基本的な収入は企業に依存する事になるので、人々は企業に労働資本を集中的に投下して、より多くの報酬を得ようという事になります。企業の求めるような労働を供給して、報酬を最大化した上で、家計は消費に専念します。
このスタイルの問題点としては、企業が行き詰った時点において、家庭として持てる行動はほとんど何も無いという事です。企業が競争などにさらされて企業からの収入が減少すれば、家計の収入増でそれを補うような行動を家計は簡単に取れないようになってしまっています。選択肢として転職などという行動もありますが、長く1つの企業で労働供給する事で労働の価値を高めている日本型のスタイルでは、他社では求められている能力と乖離が生じて、自社ほどの給料を確保する事は難しいかもしれません。この打開策については、省略します。
また、教育のシステム自体も、企業内部でいかに生産を増やすかに重点を置いた大衆化教育が実現されていますので、その教育を終えた時点で企業内部ではなく、個人や家庭を主体とした生産を行う(スポーツ選手はそれに近いのかな)というのは難しいかもしれません。また、家計や個人が主体となる生産であったとしても、基本的にそれは多くの人を動かしてお金を吸い上げるという構造自体は同じです。大きな企業でも、個人や家族の経営から始まっている事が多いですね。歴史の中でそれが隠れていったという事だと思います。
近代社会において、企業の規模は国家を凌ぐほどまでに拡大して、そこへの就業を目的とした高度な教育を受けた大量の人材が送り込まれるというスタイルが確立しました。金を持ったファミリーが企業の裏側に居る事も良く知られていて、例えばイタリアのファミリー(マフィア)であったり、米国のブルーブラッドなどが典型的な例として知られています。日本でも世界大戦前に資源を確保したいという国家の裏側には、大きな財閥が居たといわれていますが、形式上は戦後の財閥解体でバラバラに解体されました。
戦後は、財閥解体などで財閥家庭の財産が没収された上に、農地改革などで最貧困層にあった小作農は極端に減少して、自作農として自立した畑を持てるようになり、それが日本の高度経済成長を支えたとさえ居言われています。現在は、もうちょっと経済システムが複雑になって、田畑の収穫からだけお金が生み出される訳ではなく、企業が行う多様なサービスが資源と呼べるようになってきました。例えば、ウェブサイトであっても大なり小なりお金を生み出すことが出来るので、資源と呼ぶ事も出来るかもしれません。
結論としては、この畑・田んぼ、土地などと同類になる生産のための基盤を持っていなければ「小作農」に定義されるし、自分が耕す分ほどの基盤を持っていれば「自作農」と呼ばれるし、人に給料を支払えるほどの基盤を持っていれば「地主」という事が出来ますね。もちろん、田畑から取れる収穫量は上下するので、米が余っているのに米を作る畑を持っていても意味がないです。これが国家が生産を完全に管理する事が出来ると信じた社会主義よりも資本主義の方が優れていた点でもありました。
さて、ほとんどのサラリーマンは、上記では「小作農」に位置します。自分の畑を持たなければ、ずっと働き続ける事になります。戦後の日本は「1億層中流」と言われて格差は少なかったのですが、少しずつ資本主義が浸透して、地主と小作農の区別が少しずつ明確化してきています。更には、小作農の間でも格差が明確化してきています。高度経済成長の時期のようにサラリーマンが稼ぎが安定して沢山稼げるという傾向は少しずつ減少して、さらに資本主義の要素は強まるものと思います。持つべきものは、小さくてもいいので「自分が耕した土地」だと思います。
また、教育のシステム自体も、企業内部でいかに生産を増やすかに重点を置いた大衆化教育が実現されていますので、その教育を終えた時点で企業内部ではなく、個人や家庭を主体とした生産を行う(スポーツ選手はそれに近いのかな)というのは難しいかもしれません。また、家計や個人が主体となる生産であったとしても、基本的にそれは多くの人を動かしてお金を吸い上げるという構造自体は同じです。大きな企業でも、個人や家族の経営から始まっている事が多いですね。歴史の中でそれが隠れていったという事だと思います。
近代社会において、企業の規模は国家を凌ぐほどまでに拡大して、そこへの就業を目的とした高度な教育を受けた大量の人材が送り込まれるというスタイルが確立しました。金を持ったファミリーが企業の裏側に居る事も良く知られていて、例えばイタリアのファミリー(マフィア)であったり、米国のブルーブラッドなどが典型的な例として知られています。日本でも世界大戦前に資源を確保したいという国家の裏側には、大きな財閥が居たといわれていますが、形式上は戦後の財閥解体でバラバラに解体されました。
戦後は、財閥解体などで財閥家庭の財産が没収された上に、農地改革などで最貧困層にあった小作農は極端に減少して、自作農として自立した畑を持てるようになり、それが日本の高度経済成長を支えたとさえ居言われています。現在は、もうちょっと経済システムが複雑になって、田畑の収穫からだけお金が生み出される訳ではなく、企業が行う多様なサービスが資源と呼べるようになってきました。例えば、ウェブサイトであっても大なり小なりお金を生み出すことが出来るので、資源と呼ぶ事も出来るかもしれません。
結論としては、この畑・田んぼ、土地などと同類になる生産のための基盤を持っていなければ「小作農」に定義されるし、自分が耕す分ほどの基盤を持っていれば「自作農」と呼ばれるし、人に給料を支払えるほどの基盤を持っていれば「地主」という事が出来ますね。もちろん、田畑から取れる収穫量は上下するので、米が余っているのに米を作る畑を持っていても意味がないです。これが国家が生産を完全に管理する事が出来ると信じた社会主義よりも資本主義の方が優れていた点でもありました。
さて、ほとんどのサラリーマンは、上記では「小作農」に位置します。自分の畑を持たなければ、ずっと働き続ける事になります。戦後の日本は「1億層中流」と言われて格差は少なかったのですが、少しずつ資本主義が浸透して、地主と小作農の区別が少しずつ明確化してきています。更には、小作農の間でも格差が明確化してきています。高度経済成長の時期のようにサラリーマンが稼ぎが安定して沢山稼げるという傾向は少しずつ減少して、さらに資本主義の要素は強まるものと思います。持つべきものは、小さくてもいいので「自分が耕した土地」だと思います。
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