しかし、諸外国においては、学歴というものが絶対のパワーと威力を持ちます。先ず、学歴社会が階級社会化されており、学歴が無ければ将来は無いものと考えられています。米国においても、上流階級を形成する人の多くが高学歴で占められており、学歴社会は日本と比較にならないほどに浸透しています。しかし、問題なのは、学歴社会が社会で上手に機能しなくなるという事です。
日本では、かつて士農工商などというシステムが存在しており、こうした階級の非効率さが学歴社会を形成する要因となったと考えられています。学歴社会では、どのような階層であっても、勉強が出来れば社会の上位層に食い込む事が出来るようになりました。野口英世などは、農民の出身でありながら、幾つもの博士を与えられる事によって社会的地位は相当に高かったと考えられます。日本では、戦後も一億層中流など中流主義によって、資産の配分などが上手にいって「共産主義国以上に平等な」社会が形成されました。
今回のタイトルにある学歴社会の機能不全が何故起こるかという事は、過去の歴史から考える事が出来ます。学歴社会の始まりとしては、中国で隋朝から清朝まで行われていた科挙システムがあげられます。科挙は、役人になる為の登用試験なので、現在の入試とは異なりま0すが、実際に誰でも平等に機会があること等から現在の学歴に相当するものであると考えられます。
この試験の問題点は、誰でも機会が平等であるとされていながら、実際にはかなりの富裕層しか登用試験を受けられなかった点にあります。科挙になって官僚の地位を得たものが、富裕層となってその子供に更に高度な教育を受けさせるという特権階級が定着していきました。現在の学費が高い大学院などが富裕層でなければ入学が難しいという事と似ています。結局の所は、小さな頃から科挙の為に多くの時間とお金を費やした物のみが合格できるという点が一般の人には合格を難しくしていました。科挙は、1905年に廃止されるまで1000年以上も続けられていて、中国を文化面から支えました。
科挙に合格すれば、知識にも優れて皇帝のお墨付きを得て地位を保証されました。科挙は、元時代に一度廃止されていますが、それはモンゴル族が直接統治しており、必ずしも漢民族が形成する文化である科挙のシステムを重視しなかった点です。読書をする人は乞食のひとつ上の階級程度であると考えられており、読書などがあまり意味を持たなくなった時代であったと考えられます。この科挙システムによって、中国において現在の文系学問が世界でも類を見ないほどに発達したと言えます。近年になって、西洋から理系の医学、物理、工学などが取り入れられると、こういった文系の科挙は軽視されるようになり、科挙も廃止されます。
日本では、博士過程を終えた人が就職できない「ポスドク問題」などが深刻化していますが、日本の傾向はこうした専門知識が企業にとっては使いづらいと思われており、各企業がお客の需要に応じて多様なサービスを形成するという日本企業のシステム(終身雇用、年功序列)の方が学歴よりも重視される傾向もありました。高学歴者にとっては不利な社会構造ですが、実用的なものを求めるという点においては合理的なシステムであったと考えられます。
博士課程などが、一部の業界を除いて、実用的な分野を離れた「アカデミック」化しているという問題点は、以前から指摘されています。専門化すればするほどに、現実的にはとても使わない技術や知識などを追求してしまうという問題点があります。アカデミック業界においては、現実的であるなしに関わらず、より専門的な知識というものが求められており、言い方を変えれば、既に科挙システムのような状況になりつつあるという事です。
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